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建築史家の生兵法を興味深げに眺めていたカタダイの親父さんが、進退きわまったのを見て呼んできてくれたのが八ヶ岳の麓の鋳物師屈という集落に住む矢沢忠一老人であった。
五十年前まで割り板をやっていたが、戦後は用がなくなったので板金屋に転じ、今は息子に譲って隠居中の身。
曲がった腰をさらに曲げて、丸太をまたぎ、古い麻袋より鉄のクサビと木のクサビを取り出した。
丸太の木口に近い位置にまず鉄のクサビを打ち込むと、ピッと割れが走る。
さらに槌でたたくとクサビはグイッと進み様の黄みがかった中身がのぞく。
次に、鉄のクサどのそばに木のクサビを打って割れを広げると鉄のクサビはコロリと抜ける。
その鉄クサビをまた打ち込んで、という作業を繰り返す。
間近に迫る山を背景に、樵の丸太にまたがって鉄のクサビを軽々とあやつる日焼した小柄の老人。
その動作に合わせて響く槌の音と割れの走る音。
眺めているうちに、平地で始まった弥生人の集落建設の作業を、おそるおそる山から降りてきてじっと見つめている縄文人のような気持ちになってきた。
柱にすればただ一本にしかならない丸太が、小さな鉄片一つで何枚もの板に増殖してゆく驚き。
春の米の一粒が秋に何百倍もになるのと同じ不思議。
持病のある矢沢さんは、午前に病院で点滴を打ち、午後に作業し、四カ月かけて四十五坪分の割り板を用意してくれた。
そして張り上げられた梶の割り板の壁は、立ち木の時のパワーを充分に発揮してくれた。
しばらくして、矢沢さんは亡くなられた。
日本の伝統建築には、いくつも〝伝説″がある。
いずれも日本の木造のすばらしさをほめたたえる内容になっている。
ほめる力は偉大で、どんな娘でも、親が美しい美しいとほめ続ければそれが自信になり、やがて自信が顔にでて本当にそれなりに美しくなってくるそうだ。
日本の木造技術建築も、世界二、世界二と自分たちでも言ってるうちに、本当に世界一になってきたような気がしないでもない。
その証拠になるかどうか、専門的な目で分析すると、日本の木造技術のピークは明治の半ばから大正にかけてなのである。
けっして江戸時代なんかじゃない。
日本が世界に開かれてから日本の木造は急速に上りつめてゆく。
江戸時代にもし有力町人が普請道楽をしていると、幕府の馨移禁止令で財産没収だし、血武士にはそもそも経済的なゆとりがない。
幕府が建物に財を注ぐ余裕があったのは、江戸初期の日光東照宮の造営までだし、桂離宮も、デザイン的にはともかく使われている材料や加工技術からみると安手なものだ。
明治になってようやく、普請道楽が大手をふって許されるようになり、全国からの木と職人をひとつ建物に集中することが可能になった。
現在の大成建設の元になった戦前の大倉土木の創始者は、本邸を現・ホテルオークラの敷地に構え、別邸を隅田川の向こうの向島に置いていて、その中に蔵春闇という和風ゲストハウスを明治四十五年に完成させた。
それが現在、船橋のララポート内に移築されて喜翁閣となっているが、これを訪れてみると、材料と技の資を尽くすとはこういうことかと納得できる。
明治四十五年に蔵春蘭が完成したのは象徴的で、そのころが日本の木造技術のピークだったのである。
大工棟梁の世界では、大正四年に始まり大正九年に完成した明治神宮の造営がピークだったと語り伝えられている。
日本中の銘木が集められ、全国各地から馳せ参じた腕自慢がそうした木を相手に技のかぎりを尽くした。
明治になってから、日本の木造建築は、〝すばらしい″〝世界一″とほめているうちに、本当に現実が追っかけていったのだった。
そういう伝説のひとつについて、今回、検証を加えてみようと思う。
それは、〝校倉造りの調湿能力″である。
奈良の正倉院の建物は高床式の校倉造りになっている。
皇室伝世の宝物の倉で、その扉を開けるには、創建当初はむろん現在でも、天皇の勅許が必要となる。
千数百年にわたってそんな決まりを守って維持されてきた宝庫は世界にないから、疑うことなく世界この世界一の由緒にふさわしい伝説が建物の作りにもあって、校倉造りは、雨の日には木が膨張して隙間をなくして湿気の流入を防ぎ、晴れると収縮して隙間があき中の湿気を逃す、というのである。
高床にして地表の湿気から遠ざけた上で、校倉で調湿する。
なるほど、あの珍しい作りは、そういう古人の知恵だったんだと素直に納得する。
中学、高校の奈良への修学旅行の時には、ガイドから同じ話を開いた。
しかし、大学の建築学科に入ると、建築史の講義でそんな話は一切出てこないし、教科書にも書いてない。
中、高とバトンタッチされてきた〝日本の知恵″を最終走者の大学は受け取らないのだ。
バトンは、グラウンドに放り出されてころがるばかり。
世間の常識と専門家の知識との間の溝に落ち込んで、私なりに考えた。
高床の有効性は間違いないが、校倉の調湿能力はどうか。
木は確かに湿気によって膨張するが、その膨張で隙間がなくなるためには、ふたつの条件が満たされないといけない。
ひとつは、校倉の校木の性能で、お互いの接触面に凹凸があってはいけないから、まず062材は無節(節がない)の柾目、それも使ってるうち痩せないように太い檜材の赤身(芯材)にかぎられる。
もうひとつの条件は、加工の精度で、校木の接触面が完全にピッタリと合わさるよう真っ平らに削らないといけない。
このふたつの条件が整えば、ちゃんと伸びたり縮んだり、すいたり詰まったりしてくれるだろう。
果たして可能か。
まず、櫓の太材の無節、柾目については、奈良時代なら可能だったに違いない。
なんせ、それ以前まで、日本の森は生え放題、育ち放題で、日本中が屋久島みたいなもんだった。
縄文杉、縄文檜だらけ。
中から節目の通った巨木を伐り出して、マグロのトロみたいにいいところだけ使えばいい。
次に加工精度については、これはもう日本の大工は世界一の、モウイイってくらいの精度を誇る。
板と板を重ねておいたら吸い付いて離れなくなったなんて話はざらな世界だ。
このふたつの条件は奈良時代なら可能だから、世間の常識の方が正しいかもしれない、とひとまず考えたが、建築家の日で実際に正倉院を見学して不安になる。
校木はそばでみると大黒柱くらいに太く、当然のように節はあるし、割れや歪みもいっぱい。
竣工当初はともかく、数十年したら隙間は開きっぱなしになってしまった可能性が高い。
絞りさらないカメラのシャッターみたいなもんで、困ってしまう。
それでも、程度問題だから、閉まらない隙間が一部にあっても、全体としては調湿してくれたのかもしれない。
で、大学の三年生のとき、建築環境学(空調)の教授にこの疑問をぶつけてみると、一冊の本を渡してくれた。
同じ様を疑問に悩み、正倉院の内と外に湿度計を据えて、計測した空調学者がいたのだ。
戦後のことで、戦前ならそんな〝不敬″は許されなかった。
で、結果はどうだったか。
結果はコレコレと書いて原稿を渡したら、編集者から〝データを示して欲しい″とのF考えてみれば私は大学の教授。
データをお見せしょう。
正倉院の温度と湿度月冬なんか中の方が湿度は高い。
それよりなにより、年の平均湿度は七十六パーセントを叫越えており、現在の博物館では失格。
春と秋は下がっているが、肝心の梅雨時はわずか一パーセントの差。
全体の数値の動きをみると、ふつうの木造家屋と同じになっているだけのことで、校倉の効果はない。

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